「きなげつの魚」 渡辺松男
あしあとのなんまん億を解放しなきがらとなりしきみのあなうら
亡き妻のあしの裏を見ている。どれくらいの年月を共にしてきたのか、その時間を歩いた数になおせば何万、何億となるのだろう。その足跡から彼女は解放されたという。静かに見つめるという行為の中に、長い時間と歩くという動きの二つが畳み込まれており、読んだ瞬間に世界が一気にひろがってゆく。
渡辺松男さんは、不思議な歌をつくる人だ。
それでいて、不思議なほどわかる気がする歌をつくる。「気がする」のであって、理解から少し離されてしまうのが不思議のゆえんだ。
例えば、こういう歌だ。
臼ここにあるゆゑなんのわけもなくかなしいここにあるといふこと
たれからも理解されざる哲学はわれひとりのとき臼はばけもの
ぢつとしてゐる石臼に追ひつけぬわれのあせりは木の葉ちりやまず
存在すること、その悲しみを詠っている。なぜ臼なのか、理解を超えた存在感があるゆえだろうか。あるいは、車椅子生活を余儀なくされているのだろう。その動けないことの悲しみを詠っている。私が動けないことなど少しの関係もなく、秋がくれば木の葉は散ってしまう。臼である必然性がわからないにも関わらず、臼以外の言葉に交換できるようには思えない。理屈から少しはみ出したところに、詠み手の意識が見える。わからないけど見えてしまう。
青空は大莫迦だから頭入れあたまは五月の空の大きさ
この歌なんかは臼の歌と違って状況もわからない。それでも大莫迦と言い放ってもゆるされるくらいの五月の空の大きさが、あるいは意味もなく大莫迦と言いたい気持ちがばーんと伝わってくる。渡辺松男さんは、理屈を超えたひどく主観的なものを他人に伝えることができる言葉をもっているのだ。
樹は港しらざるままに逝くべきを鳥は港とおもひて樹に来
言われてはじめてなるほどと思う。とても魅力的な発見の歌だ。この発見は私が樹であったら、鳥であったらのまなざしでなされている。この他者、あるいは他物へよりそう強い思い入れが、不思議なのにわかる気がする歌を支えているものの一つであるように思う。自分の目から他物になったつもりで見る、その過程で、一度、客観的な視点を獲得するのだろう。きなげつの魚は、一冊を通じて挽歌となっているので「逝くべきを」も、当然、逝った人を想像させる。港には泊まる人がいて、出て行く人がいる。あなたと出会い、出会わなければ知らなかったものを知ってしまった。そして、鳥は行ってしまった。痛切な挽歌なのだ。この歌には主観とか客観とかを超えて、言葉の持つ力をまざまざと見せつけられる。
その他に好きな歌をいくつか。
あぢさゐのみえざるひかりうけて咲みひかりさやげばあぢさゐのきゆ
世にたつたいちまいの空ひるがへり黒あげはみゆ君なきわれに
タイルの目朝のひかりにうきあがりタイルひとつにわれはをさまる
てのひらのあらざる鳩は手をかさねあふこともなく雪に二羽ゐる
てのひらにおほみづたまりあるゆふべてのひらを吾は逆さにしたり