那須の短歌 blog

短歌について書きます

「むかれなかった林檎のために」 中津昌子

あじさいにみどりの花がふくらめば手をのべて触れよあなたも空から

 いまは亡きあなたに手をのべて触れよ、という。 季節は五月だろうか。色づき始める前のあじさいのみどりと空の青がまぶしい。あるとき、ふっとあなたのことが思い出される。その思いはきっとうまく言葉にあらわすことができないものなのだろう。さびしいとか、悲しいとか、言葉にすると嘘になってしまうような感情がわく。色づく前、ふくらんだみどりのあじさいに仮託された気持ちを共有したいのは、やはりあなたなのだ。だから、触れよという。

 

 中津昌子さんの歌のリズムがとても好きだ。ゆっくりとして、深くしみとおるような韻律を持っている。破調の歌が多いのだが、漢字とかな、そして口語調のやわらかさと文語調の硬さのバランスが心地よい。歌は詠むと同時に読むものでもある。もはや聞くことがあまりないので、表示がいかに重要かと思うと散文に近いものを感じることがある。

鬼百合のつぼみがあかくふくらむをまるごと濡らし雨は降るなり

地に近く黄の色を曳く蝶々よおまえがたてるものおとあらず

階段はいきなり終わりむらさきに暮れ落ちようとする空に出る

何があんなに忙しかったかもう何もすることがない 笑うのか母は

 オニユリはオレンジなので、赤ではなく「あか」。歌の中ほどはひらかれていて、ふくらむまでのゆったりとした時間を感じさせる。ちょうの舞うひらひらした感じのような漢字とかな。「暮れ落ちなんとせし」では硬すぎるし、出るでなければ、このいきなり感は表現できない。母が笑う。おそらくどこか乾いた笑いではないだろうか。「笑うのか母は」と断ち切られた言葉に少しの悲しみが漂う。生まれてこのかた口語だけを使って生きてきたせいもあるのだろうが、やはり、私にとって文語よりも口語が対象に近づくことのできる言葉だ。

 

あおぞらよりしみでるようにくるひかり むかれなかった林檎のために

  歌集を読むとどうやら入院をしていたようだ。むかれなかった林檎はお見舞いのしなで、林檎をむいて食べることさえ出来ないような状態だったのだろう。そのむかれることのなかった林檎、時間とひきかえに、今、ここで空をみている。気がついたときベッドから窓が見えたのだろうか。しみでるようにまぶしいひかりは、生きていることの実感である。「林檎」のみを漢字にすることで、失われてしまったものが強調されている。逆説的なのだが、結果として、失ったものとひきかえに得たものを強く感じることが出来る歌だ。

 

 その他に好きな歌をいくつか。

わたしがいないあいだに落ちしはなびらを丸テーブルの上より拾う

月はもう沈んだ頃か 吸いのみにすこしの水を飲ませてもらう

五年間服むことになる錠剤のはじめの一つを指に押し出す

ああすべてなかったことのようであり凌霄花は塀をあふれる

これがいい、ゆっくり母が手を伸ばす花屋の前のミニバラの鉢