那須の短歌 blog

短歌について書きます

「てのひらを燃やす」 大森静佳

祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず

 雨が降っている。だから傘をさす。ひどく日常的な光景の中であなたを思う。あなたを思うそれだけのことが、傘をさす一瞬を祈りへと変える。そこから立ち現れるのはとても強い思いだ。「ビニール傘をひらく昼」というたった12音でとてつもなく平凡な日常をあらわすことができる。そして、とてつもなく平凡な日常という認識を「あなたは」覆すことができるのだ。

 

 大森静佳さんの相聞が好きだ。破調のほとんどない丁寧な言葉から生み出される歌には、しっかりとした思いが込められている。イメージが乱反射するような言葉を組み合わせるのではなく、読んで、そして意味を捉えることで世界が広がるような歌を詠う。

カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている

唇(くち)と唇合わす悲しみ知りてより春ふたつゆきぬ帆影のように

つばさ、と言って仰ぐたび空は傾いてあなたもいつか意味へと還る

空の端ちぎって鳥にするような痛みにひとをおもいそめたり

  くちづけを終えて空を見上げるというのは、どのような状況なのだろうか。光を遮るような少しの重さを体にまとい、心は茫漠とした広さに遊ぶ。カーテンや雲といった具体は、ほとんど内面描写に捧げられている。悲しいということを知ってからの2年には、しかし、春風に膨らむ帆のような充実を背後に隠している。実感といえるほどのものではないのかもしれない、影のようにあるとわかるものなのだろう。入学の季節を数えることで、大学生活を感じさせる歌でもある。いつも必ずそこにある空さえも、仰ぐたびに傾く。あなたがいなくなるまでの遠い未来を思う。空を見上げていると鳥は、視界の中にふっと現れる。今ここにいないあなたがふと思い出される、少しせつないのだ。大森静佳さんは、空のように広い空間と長い時間を背景に置いて「今」「ここ」という一点をすくい上げていて、それが歌の中の思いの強さにつながっているのだろう。

 

 やましさが案山子のように立っているからだを抜けてくるのか歌は

  前後の歌から東日本大震災のときの歌だとわかる。どうすれば外にある題材を自分の体の内にとりこんで、歌として吐き出せるのだろうかという苦悩ばかりが私にはある。しかし、本当に強い衝撃を受けたとき、たとえ、案山子のように棒立ちになっていようとも、歌はからだを自然と抜けてくるのだろう。それは、至福のような出来事でもあり「歌は」で切断したところに、その業に自覚的であろうとする姿勢を感じてしまう。

 

 言葉にわたしが追いつくまでを沈黙の白い月に手かざして待てり

  残念なことに歌が歌として、そのまま降りてくることはまずない。はじめに言葉がやってくる。その言葉は手をかざしても届かないはるか遠くにあるようにみえる。「言葉にわたしが追いつ」いて、はじめて歌になるのだ。苦悩しながら追いかけ続けるということに強い共感を覚える。

 

 その他に好きな歌をいくつか。

風のない史跡を歩む寡黙なら寡黙のままでいいはずなのに

沈黙がリラを咲かせてもう何もこぼれないよう手の下に手を

この生にたとえばどんな翼でもみずから燃やしてしまうわたしは

夕焼けに喰い込む牙を持つこともあなたがあなただから言わない

風の昼運ばれてゆきてのひらを離れてからがほんとうの柩